北方領土問題

所謂北方領土問題を外交面だけでなく、軍事的な視点を交えて考えてみましょう。

まず、第二次世界大戦後の全世界のほぼ全ての国境線は、第二次世界大戦の結果として決まったものであるということ。
それが確定されること及び一度確定されたそれが変更されるには、第二次世界大戦における主要な連合国の同意・合意が必要であること。
この2点をしっかりと踏まえないことには、領土・国境線に関しては実効性のある議論も案も出てはこないでしょう。

日本と日本の近隣国との国境線は、日本が同意しようがしまいが、主要な連合国が一致してここだと決めてしまったら、日本の意思ではどうにもならないというのが現実です。

1938年にミュンヘン会談というのがありました。
会談したのは、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ。
会談により、チェコスロバキアとドイツとの間の国境線は変更されました。
この時、チェコスロバキアの意思は何ら斟酌されていません。

大国(主要国)の意思の前には小国(非主要国)の意思は無視される・若しくは初めから問題にもされない。
今も昔も、これが国際社会の現実です。

第二次世界大戦の敗戦国たる日本の領域(国境線)は、連合国の主要な国々の意思により決められた。

終戦直後から講和条約調印までの間、主要な国々の意思が一致していれば、今日の北方領土問題などはなかったでしょう。今日の北方領土問題が出てきたのは、米ソ両国という連合国の主要国の間に、日本とソ連との国境線をどこにするかについて、意思の相違があったことによります。

ここで、経緯を復習してみましょう。
第二次世界大戦開戦時(1939年9月)時点、及び日本の参戦時(1941年12月)時点における日ソ間の国境は、樺太においては南樺太(日本)と北樺太ソ連)の境界(北緯50度)、千島列島においては占守島(日本)とカムチャツカ半島ソ連)との間でした。

第二次世界大戦中、日ソ間はずっと互いに交戦状態にはありませんでしたが、1945年8月9日にソ連が対日宣戦布告して、交戦状態となりました。
1945年8月11日よりソ連軍は南樺太に侵攻。8月18日からは占守島に侵攻し、8月28日から9月2日までに択捉島国後島色丹島の占領を完了。9月3日から9月5日で歯舞群島を占領しました。(詳細は諸説あり)

第二次世界大戦の最中、1945年2月に連合国の主要3国(米ソ英)が話し合い、戦後の日ソ間の領域が合意されました(ヤルタ協定)。
日ソ間の領域に関係する内容としては、「南樺太ソ連への返還」と「千島列島のソ連への引渡し」。

1945年8月から9月にかけての南樺太・千島列島への侵攻と占領は、ソ連が一国で勝手にやった行動ではなく、米英という連合国の主要国の同意のもとで行われたわけです。

1946年1月、連合軍司令部が日本の行政区域を示す命令を発し、千島列島・色丹島歯舞群島は日本の行政区域の域外とされました。
この時点では、米国も千島全島と色丹島歯舞群島ソ連領となることに同意していたことがわかります。

1951年、サンフランシスコ講和条約が締結され、同条約2条C項により、南樺太と千島列島の全ての権利、権原および請求権を日本国は放棄する、となりました。
条文中に千島列島が具体的にどの範囲であるかは記されていません。

当時、米国代表は「歯舞群島は千島に含まれないというのが米国の見解」と述べています。
逆に言うと、択捉島国後島はもとより、色丹島も千島列島の一部という見解であったということです。

日本代表は、「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島」という表現で色丹島歯舞群島は千島の一部ではないという見解を示しています。
択捉島国後島については「千島南部の二島」の表現をしているため、この時点で日本は択捉島国後島は放棄した(させられた)という認識だったということです。

つまり、1951年当時、日米2国とも国後島択捉島は日本が放棄、歯舞群島は日本領という認識で一致しており、色丹島については日米2国間で見解が分かれていたということです。

1956年、日ソ共同宣言調印。
この中で、平和条約締結後、色丹島歯舞群島ソ連は日本に引き渡すとされています。
当時、日本は色丹島歯舞群島を返還させ、国後島択捉島は断念して平和条約調印の腹を固めていましたが、米国が国後島択捉島の返還要求をしないならば、沖縄の返還はしないと言ってきたため、平和条約をあきらめ、共同宣言という形にしたと言われています。
このとき、米国は、日ソ間の国境は日ソ2国間の合意のみで決められるものではなく、連合国の同意で決められるものであるという意思表示もしていたようです。

その後、日本は米国の意向を受け、択捉島国後島色丹島歯舞群島の4島返還をソ連・ロシアに要求し続けているわけです。


では、北方領土問題は、今後どう扱ってゆけばよいのでしょうか。
米ソ間の冷戦が継続している間は、解決の可能性はなかったでしょう。
米ソ両国とも譲歩する気はなかったでしょうから。
しかし、冷戦終結後は、可能性がでてきていた(いる)と考えられます。

既述したように、この問題は日露二国間の合意だけで解決できる問題ではありません。
日露二国間の合意だけで解決可能ならば、日本が択捉島国後島への要求を取り下げ、日ソ共同宣言の内容にそって色丹島歯舞群島の返還で平和条約を調印すれば終わりです。

しかし、米国の同意がなければ解決はできない。
過去の経緯から、米国が今更色丹島歯舞群島の返還だけで手をうってよいというとは考えにくいでしょう。
日本自身も、今更色丹島歯舞群島だけで解決というわけにはいかないでしょう。

ロシアが択捉島国後島までも返還するかというと、それもないと考えられます。

では、日米露3国が合意できる解決策はあるのか。

国後島を地図でみると明白ですが、知床半島根室半島に挟まれた位置にあります。
距離も最短地点で16km。榴弾砲の射程内です。
日本が武力による奪還を企図した場合、ロシア側は防御に苦慮しそうです。
地形も太平洋側は比較的平坦で港湾もあり、補給・増援が容易ですが、オホーツク海側(即ちロシア本土・樺太側)は急峻な地形で補給や増援が困難です。
色丹島歯舞群島が日本に返還された場合は、ロシア側から見てさらに国後島の防衛は頭痛の種になるでしょう。

また、平時における領域警備(国境警備)においても、色丹島歯舞群島の返還後はもとより、現状でも中間線の形状が複雑で長く、警備は面倒でしょう。

色丹島歯舞群島に加え、国後島も日本領となり、択捉島以北がロシア領となった場合のほうがロシア側からみても防衛や警備が楽になることが考えられます。
返還後、これらの島に米軍基地は作らず、日本も重装備は配備しないなどの約束をすれば、ロシアにとってメリットがあると認識させることは不可能ではないのではと考えられます。
(少なくとも、デメリットだけではないという事実の提示ができます。)

米国にとっても、太平洋からオホーツク海へのアクセスが根室海峡(海路)と国後島上空に広がるメリットがあり、色丹島歯舞群島だけの返還よりは同意しやすいと思われます。

もし、米国が太平洋からオホーツク海への海路のアクセスルートの拡大に拘るならば、国後水道(国後島択捉島の間の海)を完全に日本の領域にすることに固執するかもしれません。(国後島が日本領、択捉島がロシア領でも国後水道の中間線までは日本の支配下にできるのでアクセスはできますが。)
国後水道は、根室海峡よりも格段に水深が深く大型艦や潜水艦を通すにはここを支配したくなります。

その場合は、択捉島の国後水道に面した一部を日本領とすることで実現できそうです。

これは、2006年に麻生外相(当時)が私案として表明したもの(面積2等分案・所謂3.5島案)と合致します。
日本国内的には、名目は(所謂)4島が返還されたと言えるし、ロシア側も日本の要求を半分に譲歩させたと言える案でしょう。

このように、「北方領土問題を解決する」という視点にたてば、日本は米露両国と自国民を(所謂)3.5島案で説得するか、あるいは(所謂)3島案で解決を目指すかのいずれかの選択肢の実現に向けて動くべきと考えられるでしょう。