江戸時代の鎖国−非武装中立論を支持するセンスの土壌−幼児体験への誤解

さて、理論的にありえず、現実的でもない非武装中立論が日本で一時期、一定の人々に支持されたのはなぜでしょうか。
そこには、江戸時代の鎖国についての素朴な幼児体験が土壌として存在するのではないでしょうか。

1600年代前半・江戸時代初期、日本は自分の意思で所謂鎖国という政策を採用し、江戸時代末期までそれを続けることができました。その事実は広く知られているとおりです。
しかし、なぜそれが可能であったかという検証・検討やその方面での知見は一般には認識されていないでしょう。
何となく、日本が自分で決めて実施したというだけの印象。

そのような認識から、今日においても重要な外交・防衛政策を決定するにあたり、日本が自国の意思・都合だけでそれを採用し実施することができるという意識が生まれたのではないでしょうか。
日本が自分の都合でこうしたいと決めれば(言えば)、そのとおりに出来てしまう。鎖国したいと決めれば、鎖国ができてしまう。
同様に非武装中立でいくと決めれば、諸外国はそれを尊重してくれる。そんな感覚が無意識の中にあったのではないでしょうか。

江戸時代初期、鎖国という政策を実施できた背景は何か。

それを探るには、鎖国をやめて開国した経緯を考えてみるのがよいでしょう。
江戸時代末期、日本は諸外国から通商交易をするよう要求されました。当時、日本はそれを行うつもりはありませんでした。日本は、諸外国による度重なる交易要求を断り続けていました。
ところが、1850年代、米国(ペリー)の要求により通商条約を締結し、鎖国をやめました。

江戸時代初期、鎖国を始めてしばらくのうちは諸外国から交易の再開を求める要求が何度も出されましたが、日本はことごとく拒否しています。1640年には、交渉に来た使節団員を殺して、彼らの乗ってきた船を焼き払っています。

なぜ、1853年にはペリー以下を殺して、黒船を焼き払わなかったのか?
それは米国の軍事力が怖かったから。
では、1640年にはポルトガルは怖くなかったのか?
怖くなかったのでしょう。

その差は何か?

日本が鎖国を始めた頃のポルトガル・スペインは強国で、その武力を背景に世界各地に植民地を造っていました。当時のポルトガル・スペインが、1850年代の米国より弱かったということはありません。
では、なぜ鎖国開始当初と開国時の日本の対応に180度の違いがあるのか?

それは、両時代の日本の軍事力の、同時代の諸外国との差にあったと考えられます。

1600年代の日本の軍事力は、同時代の列強と比較して強かった。それで、世界各地に植民地を造っているような強国に対して、交易はしないという自国の意思を強要できた。

ところが、1850年代半ば頃の日本の軍事力は、同時代の列強と比較して必ずしも強いとはいえない状況になっていた。そのため、当時の列強に対して自国の意思を強要することはできず、相手の要求を呑んで開国する羽目になった。
(ただし、少なくとも相手の植民地にされない程度の軍事力は持っていた)

こういうことだったと考えるのが合理的でしょう。
ポイントは、日本の軍事力の諸外国とのそれとの相対的は差。

江戸時代初期の鎖国政策の実施と江戸時代末期の開国、この両者の外交的・軍事的な意味合い・背景をしっかりと考えていないことが、戦後日本人の外交・防衛についての無理解に繋がっていると思えます。